進行形 2
週末、長野新幹線は地元で仕事をした。
信州の空気はいい。でも、それだけでなく、呼吸が楽だと感じていた。理由のひとつは、東海道新幹線と顔をあわせずにすむから。寂しいながらも気が楽なのは否定できない。もうひとつには、東京詰めになる来週の一週間、先輩たちと夕食の予定が入っていたから。
金曜日の夕方、先輩たちは次々に長野にアポを取ってきた。月、火、水、木、金まで、見事に分担して。自分のことを思って話し合ってくれたことが一目瞭然で、笑ってしまった。隠すつもりもない心配や愛情が、ぞんぶんに甘やかされていたころのようで、今の長野には嬉しかった。それを見ていた東海道が何もいわないのにもほっとした。
なにをしていても暖かなものにつつまれた土日だった。
月曜の夜、上越新幹線は料理屋の個室をとってくれていた。もう大人だからね、こういう店もいいだろうと。風情のある和室を見渡しながら、この先輩はときどき予想をこえたことをする、と長野は思う。
上越はうまそうに酒を飲み、順に運ばれてくる美しい料理を食べながら、こうしていただくんだよと基本の作法を教えてくれる。料理は上品で、雰囲気はみやびやかで、長野は別の世界にいるように高揚した。すこし緊張している後輩に、上越は膝をくずしてみせる。
「まあ、ぼくは気にせず飲みたいから個室にしたんだけど。きみも楽にしなよ」
あ、はいと長野が素直に足をくずすのを見て、上越の目がなごむ。
「でも憶えておいて損はないよ。いつか洋食のマナーも教えてあげるよ。国によって違うんだよ」
「すごいですね。さまざまなマナーをご存知なんですね」
「東海道だって知ってるよ。彼は育ちがいいもん」
東海道、と聞いて箸が止まる長野を一瞥してつづける。
「彼は、しつけもちゃんとされてるしね。戦前のしつけだから、あの厳しさにはかなわないよ。毛色がいいっていうか、正統っていうか。ELITEだよねぇ」
エリート、という単語を気に障る響きで発音する。上越先輩も、候補生から選ばれたエリートでしょう、というと
「ぼくはね、マナーは習ったけどしつけは受けなかった。しつけてくれる人なんていなかったんだ」
上越は、流れるように語りだした。
「ぼくにマナーを習わせてくれた人は、しつけはしてくれなかったんだよ。だからずいぶん驕った、勘違いをした、それでいて拗ねた子どもだったと思う」
耳ざわりのいい声に、長野の意識がひきこまれていく。
「ぼくたちに家族なんてないんだ。ぼくにはパパと呼んだ人がいたけど、その人には本当の家族がいて、もちろんぼくなんか息子じゃなかった」
長野が眉をひそめると、上越はちらりと笑んでそれを見た。それで、せりふが独白でないことが知れた。
「でも、大好きだったよ。かわいがってもらった。甘やかしてもらった。贅沢をさせてくれて、ぼくを特別扱いにしてくれた。…飲みすぎると、怒ってくれたなあ。ああ、そうだ、国鉄もだ。国鉄もぼくを腫れものに触るように扱った。そのひとの意向があったからね」
そこで上越は言葉を切り、日本酒をひと口味わう。
「でもそれが、本人のためかどうかは別のことだ」
ということは、つまり本人のためではないということだと、長野には見当がついた。
「ぼくは今でもパパをなつかしく思うけど、もうあの人を頼ることはできない。でも、悪くないよ。今は贅沢はできないけど、自分の稼ぎで酒が飲めるし、むかしより話が通じるやつが増えた。長野、きみも含めてね。今のぼくは、パパがいなければここにいない」
「先輩、ぼくは、こんなお店の個室でご馳走をいただくのは、贅沢だと思いますが」
「桁が違うよ」
素朴な問いに、上越は遠くを見るようにこたえた。メランコリックな沈黙が流れ、過去をふくんだ空気がたゆたう。
長野が、誘われるように話しだす。
「なぜでしょう、新聞配達をしていたことを思い出します」
「新聞配達! きみが?」
上越が目をむく。無理もない。
「まだ建設中で、もっと小さかったときです。ときどき東海道先輩や東北先輩が見に来てくださっていて、話し合ったり、指示をだしたりしていました」
「……もしかして、東海道がやれっていったの、新聞配達」
「よくお分かりですね。はじめは体力をつけろ、貯金をしろといわれて。手はずも調えてくれました」
「労働基準法違反じゃないの、ちいさな子に」
「どうでしょう、そもそも人間じゃありませんから。内々で、販売店に話が通ってたんですね、今から思えば。嫌じゃなかった、楽しくもあったけど、続けるのはきつかった。近所のほんの二、三十軒だったのに」
「で、いい経験をしたわけだ」
「はい。あとで東海道先輩は、開業するまえに、お札一枚を稼ぐたいへんさを知っておいてほしかったのだと、おっしゃいました」
「知らなかった。あの忙しいやつが手塩にかけて。君のためを考えて育てたんだね」
めずらしく、上越の声に皮肉の響きがない。もしかして、これが素に近い上越なのだろうかと長野はおぼろげに考える。
「ぼくは、鉄道としては多分、破格に大切に育てられた。きみもだ、長野。きみもとくべつ大切に、そしてまっとうに育てられた。ぼくと一緒にしちゃ、申し訳ないかもしれないけどね。ぼくは、ぼくを大切にしてくれた人ではなく、ぼくに都合のいいことを言ってくれた人でもなく、ある路線にしつけられた。ぼくからしたら、ただの一在来路線に」
長野はおどろいた。このプライドの高いひとが、と。
「先輩と呼ばされ、鼻っ柱をへし折られ、理不尽な扱いを受けて、それでも、ぼくはいうことをきいた。ぼくの知らなかったことを、先輩は教えてくれた。先輩が怖かったし、嫌だと思ったこともあったけど」
語りながら、くちびるに笑みを刷く。
「ありがたいと思ってる。家族じゃないけど頼りになるひとだと、今はね」
長野は上越を見つめた。
上越がのみこんできた、いろいろな欠片が長野を突き刺すような気がした。
上越先輩に、家族はいないんですか。
「パパ」は、お父さんじゃなかったんですね。
ぼくにも、家族はいないんですね。
ぼくは鉄道で、人間じゃない。先輩たちは家族じゃない。
東海道先輩はお父さんじゃないって、わかってたつもりだったけど。
でもやっぱり、寂しくて、悲しくて、頼りない気持ちなんです。
上越先輩も、こらえたんですか。こんな気持ち、いえ、これ以上のつらさを。
口に出せない声を胸にとどめる。思いにふける長野に、上越は自分の酒器をわたしてきた。
「さ、一献」
「え」
長野の目が見開かれる。アルコールを口にしたことはない、すすめられたこともなかった。
「お猪口いっぱいだけ。酒はね、初めにうんといいものを飲まないといけないよ」
長野は、透明なしずくを見つめてうなずいた。
「いただきます。…………おいしい!」
さわやかな香りが広がって、身体にすっと入っていく。あとからじわりと胸が熱くなる。上越が愉快そうだ。いたずらっぽい目が、長野に「いいもんだろう」と言っている。
いいですねと、長野が笑った。
でも基本的に雑食、無節操ですのでご注意ください。
鉄分のない駄文ですが、よろしければ覗いていってください。